大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪高等裁判所 平成3年(う)153号 判決 1991年10月11日

主文

原判決を破棄する。

本件を大阪地方裁判所に差し戻す。

理由

本件控訴の趣意は、検察官神出兼嘉作成の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は、弁護人元地健作成の答弁書記載のとおりであるから、これらを引用する。

論旨は、要するに、本件公訴事実は関係証拠によって優に認定しうるのに、原判決は、制動距離及び視認距離等に関する独自の見解を前提として被告人の過失責任を否定し、被告人を無罪にしたが、これは、証拠の取捨選択ないし評価を誤り、ひいては事実を誤認したものであるとともに、審理不尽の違法を犯しており、これらが判決に影響を及ぼすこと明らかである、というのである。

そこで、所論及び答弁にかんがみ記録を調査し、当審における事実取調べの結果をもあわせて検討する。

原判決が、本件公訴事実につき無罪の言渡しをした理由の概要は次のとおりである。すなわち、原判決は、「被告人は、平成二年四月四日午後一一時二五分ころ、業務として普通貨物自動車を運転し、大阪府茨木市五十鈴町一七番四九号先の安威川右岸堤防道路を南から北に向かい時速約五〇キロメートルで進行するにあたり、前方を注視して進路の安全を確認しつつ進行すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、右方の安威川を見て前方注視不十分のまま漫然前記速度で進行した過失により、折から北から南に対向してきたA(当時五七歳)運転の自転車を前方約一一・九メートルの地点に初めて発見し、急制動の措置をとるとともに左に転把するも及ばず、自車右前部を右A運転車両の前部に衝突させて同人を路上に転倒させ、よって、同月五日午前一時四二分ころ、同市畑田町一一番二五号所在の茨木医誠会病院において、同人を脳挫傷により死亡させたものである。」との業務上過失致死罪の公訴事実に対し、被告人の過失責任を問うためには、被告人運転の普通貨物自動車(以下被告人車という)とA運転の自転車(以下被害自転車という)の各制動距離を合計した距離の範囲外で被害者を確実に発見できたことが前提となるところ、被告人車(時速約五〇キロメートル)及び被害自転車(時速約二〇キロメートルと想定)の制動距離の和は合計三九・五メートルと認定するのが相当であること、しかるに裁判所による検証の結果によると、前方三九・五メートル地点に佇立した制服警察官については、よく目を凝らせば、その姿を確認できる程度でしかなかったことからすると、本件事故当時、被告人が、時速五〇キロメートルで走行中の自動車内から、無灯火で対向してくる被害自転車ないし被害者を三九・五メートル手前で確実に発見することはかなり困難であると認められるから、被告人が前方を十分注視していたとしても、三九・五メートルという制動距離の範囲外で被害自転車ないし被害者を発見することができなかった可能性があり、しかして右制動距離の範囲外で被害自転車ないし被害者を確実に発見できたことが、合理的疑いを越えて立証されたとはいえないから、被告人が前方を十分注視していたか否かにつき判断するまでもなく、被告人に前方注視義務違反の刑事責任を問うことはできないとして、被告人に対し無罪の言渡しをする旨説示しているのである。

また、原審における審理の経過は概要次のとおりである。被告人は、平成二年八月二八日の第一回公判期日の冒頭から前方注視義務違反事実の存在を争い、第二回公判後の同年一一月一六日午後一一時三〇分過ぎに検察官の請求により検証が実施されたが、その際には、前方三九・五メートルの地点に紺色の制服を着た警察官を佇立させ、その見通し状況及び視認状況が検分された。その検証の結果は、良く目を凝らせて前方を見れば人の姿が確認できる程度であったことから、検察官は、同年一二月一九日の第三回公判期日において、補充捜査の結果に基づき、本件事故当時被害者が着用していた服装等を立証するため、被害者の妻B子の司法警察員に対する同月一三日付供述調書の取調べを請求したが、弁護人が不同意としたため、同立証趣旨の下に在廷証人として右B子の取調べを請求するとともに、本件事故当時被害者が着用していた衣服を前提として本件車両の制動距離外での視認可能距離を立証するため再度の現場検証を請求したのに対し、原裁判所は、それまでに立証可能であった被害者の着衣について新たに立証したいというのは、裁判所の検証を徒労に帰せしめ、審理及び被告人の防御を混乱させ、訴訟をいたずらに遅延させることであり、刑事訴訟規則一条二項の「訴訟上の権利は誠実にこれを行使し、濫用してはならない。」という規定に違反するとして、検察官の証拠調べ請求をいずれも却下した。そして、同月二六日の第四回公判で弁論が終結され、判決言渡期日は平成三年一月一六日と指定された。検察官から、同月一四日付で、本件事案の真相を明らかにし、被告人の刑責の有無・軽重を判断するためには、本件事故当時被害者が着用していた衣服が、上は水色がかったグレーのブレザーコートと白色カッターシャツで、下はグレーと白のチェックのズボンという白っぽい感じの服装であり、夜間でも比較的被害者の発見が容易であったことなどの立証が不可欠であるとして弁論再開の申立がなされ、同月一六日の第五回公判で、証人B子の尋問と現場検証の請求が再びなされたが、原裁判所は前同様の理由でその請求を却下し、直ちに前記無罪判決を言い渡した。

よって案ずるに、原裁判所が実施した前記検証では、三九・五メートルの前方に佇立した警察官の着衣は紺色の制服であったから、被害者がこれと異なる着衣であったことはいうまでもなく、もし検察官が立証しようとしたような着衣であったならば、夜間の視認可能距離に有意の差が生じることは明らかである。

してみると、原裁判所が検証を実施した際、検察官において着衣の点に思いを致さず、捜査段階において警察が実施したのと同様に紺色制服の警察官を立たせ、視認可能か否かという方法で一旦検証したのち、被害者の着衣について新たに立証し、再びその着衣で視認可能か否かの検証を求めるというのは、裁判所の行った前の検証を徒労に帰せしめることになるので(もっとも紺色制服警察官でも視認が可能であれば、検察官としては立証の目的を達していたことになるから、裁判所の徒労は結果的なもの、といえなくもない。)、検察官において幾分配慮を欠いた嫌いはあるものの、基本的な争点につき、審理の経過に照らし、検察官において真相を解明するためになされたものとして、その立証事項の重要性及び必要性が高度であること並びに右の補充立証を許してもそれほど長時日を要するとは思われないことにかんがみると、刑訴法一条にいう事案の真相を明らかにするためには、検察官の右証拠調べ請求を容認すべきであったものといわざるを得ず、これを却下し直ちに被告人を無罪とする判決を言い渡した原裁判所の措置は、証拠の採否に関する裁判所の合理的裁量の範囲を著しく逸脱し、検察官の立証の機会を奪い審理不尽の違法を犯したもので、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである。

(なお、原判決は、本件業務上過失致死罪の公訴事実に対し、前記のとおり、被告人の過失責任を問うためには、被告人車と被害自転車の各制動距離を合計した距離の範囲外で被害者を確実に発見できたことが前提となり、被告人車((時速約五〇キロメートル))及び被害自転車((時速約二〇キロメートルと想定))の制動距離の和は合計三九・五メートルと認定するのが相当である旨判示するのであるが、被害自転車の時速を約二〇キロメートルとする証拠はなく((この点弁護人は、実況見分調書添付の見取図で、被告人が、被告人車は②での被害自転車を発見し、③での被害自転車と衝突したと指示説明するのを根拠に、被告人車が②から③に移動する時間と被害自転車がからに移動する時間は同じであり、計算すると被害自転車の時速は二三・一八六キロメートルになると主張するのであるが、被告人が②での被害自転車を発見してから衝突するまではほんの一瞬であり、その間に被害自転車の移動状態を正確に現認できるものではなく、また弁護人の主張どおりだとすれば、被害者は直前に迫った自動車に向かって高速度で衝突しにいったことになって極めて不自然であり、被告人の右指示説明するところに信をおくことはできない。))、また、被告人が被害者を発見できる距離よりも被害者が被告人を発見できる距離の方がはるかに長く、被害自転車は早くから制動することが考えられるから、原判決のように被告人車と被害自転車が三九・五メートルに迫った地点で同時に制動するものとして衝突回避の有無を判断するのは合理性を欠くうえ、かりに、この点は原判示のとおりだとしても、制動距離に関する各種実験や研究結果によれば、被告人車と被害自転車の制動距離の和は三九・五メートルになるとは一概にいえず、さらに、被害者の服装についての検察官の主張が認められない場合でも、被告人は、時速約五〇キロメートルで進行中、被害者を約一一・九メートル前方に発見して急制動したもので、いわゆる空走距離を考慮すると殆どノーブレーキの状態で被害者と衝突したことが明らかであるから、原判決のいう各制動距離を合計した三九・五メートルの以内であっても、被害者を発見することが可能な位置でいち早く被害者を発見し、直ちに急制動の措置をとれば、被告人車は制動のかかった状態で被害自転車に衝突し、被害者を死亡させるような本件結果は回避でき得たかも知れないし、また、その発見可能位置如何によっては、減速しながら可能な限度まで左側に転把して衝突を回避し得たことも考えられるから、各制動距離を合計した三九・五メートル以前に被害者を確実に発見できたことが被告人の過失責任を問うための前提であるとする原判決の判断自体にも疑問があるといわなければならない。)

そうすると、事実誤認の点について判断するまでもなく、原審は、審理不尽という訴訟手続の法令違反を犯し、それが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、破棄を免れない。論旨は理由がある。

よって、刑訴法三九七条一項、三七九条により原判決を破棄し、本件についてさらに審理させるため、同法四〇〇条本文により本件を原裁判所である大阪地方裁判所に差し戻すこととし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 池田良兼 裁判官 石井一正 浦上文男)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例